方向音痴と息子の成長

とにかく、私は地図が読めない。方向が分からない。

 

行ったことのない建物に入れば、どっちから入ったのかが全く分からず、出る時にかなりの確率で違う方向へ行ってしまう。友人と一緒に行った卒業旅行では、地図をぐるぐる回して呆れられた。挙句の果てには、部活でボールを拾おうと一度地面に目を向けたら、攻めるべきゴールがどっちかわからなくなってしまうこともあった。

 

方向を東西南北で言える人に憧れる。知らない場所でどうして東西南北がわかるのか。魔法としか言いようがない。

 

もうこれは個性だと思って諦め、どこか新しい場所へ行く際には、ありえないほど早く家を出て、曲がり角一つまで入念に下調べをし、一緒に行く人があれば、方向音痴であることを事前申請して万全の体制で臨んでいる。

 

その謙虚な気持ちを土足で踏みにじってくるのが、この転勤族生活。なんせ1~2年で違う都市に移るので、なんとなく位置関係を覚え始めた頃に卒業なのだ。カーナビだけが頼りなのに、近くに来ましたので案内を終了します、と無情のアナウンスに何度絶望したことか。そこからが一番知りたかったのに…

 

先日、7歳の息子を習い事の合宿に送っていく機会があった。たどり着ける自信がない、さらに、遅れたらたくさんの人に迷惑をかけることになる、というプレッシャーから、ただ送っていくだけなのに、数日前から憂鬱だった。大きな駅の、いろんな目印を記したメモを手になんとか時間前にはたどり着くことができ、そんなことも知らない息子はのんきにバスに乗り込み、窓からずっと手を振っていた。その帰りと翌日の迎えの道のりは、一部間違えながらもなんとかたどり着き、泥だらけのジャージの息子が帰ってきた。帰りは迷っても誰にも迷惑をかけないのでのんびり行こうと思っていると、大きなリュックを背負った息子が、すいすい階段を下りてわき目も降らずに歩いていく。戸惑いながらついていくと、乗る路線の改札についた。

 

一度しか通っていないこの道を、彼は覚えていた。小さな背中がなんだか頼もしかった。私が方向音痴じゃなければ気づかなかったかもしれない成長。方向音痴で唯一良かったことかもしれないと思った。